人智

人智の及ばぬ」「想定外」といっても何をもって人智というのか、何を想定していたかが問題だろう。
人類の進歩と言われるものは、まず進歩してしまってから次に反省するというプロセスの繰り返しだ。従来存在しなかったことを存在せしめることをもって新しいというなら、新しい技術に対しては想定できることは自ずと限られる。そして「人災」が起きる。なにもこれは人類に限らないかもしれない。生物の進化とはもともとこういった悲劇を内在している。
鉛公害、水俣病は言うに及ばず、水害でさえも堤防という技術で河川や海に打ち克ったと想定して本来居住不可能かもしれない場所に家を建てる。水害が起こるたびに反省しては堤防は高くなってゆく。その基準はそれまでの水害の経験、即ち「人智」だ。そして百年に一度、千年に一度の水害で再び水没する。
自然は人間のことなんか、お構いなしだ。悲惨だ、酷いといったって、それは人間から見てのことであって、自然は平気な顔でその赴くままに赴く。そして自然を畏れつつも人はそこに住み続ける。
自動車は日本で毎年数千人の人を殺している。自動車がなければこの数千人が命を失わずにすむのだ。しかし人は自動車をなくす方向には動かない。死者を減らすための方策を考えて自動車に乗り続ける。その間にも毎年命は失われて行く。口先で命の尊さを唱えながら実は利便性を優先させてきた。これが我々の選択してきた道だ。目を背けてはいけない。
そう考えると原発も同じことのように見える。事故が起こった。想定外の事態が起こったからだ。では想定を変えて1000年に一度の津波に耐えるようにしましょうというのが今までの道であれば、一見それで仕方がないように見える。
本当にそうだろうか。そこには何ともいえぬ違和感がある。それは一つは核反応を人間が制御するということ自体の不気味さから来る。これは遺伝子操作に対して感じる違和感と同種のものだ。
宇宙は確かに核反応で成立したにしても、生命は核反応の終焉した穏やかな化学反応の海で生まれ、心地よくゆったりと進化のプロセスを歩んできたのだ。核反応の持つ桁違いのエネルギーを「人智」でどこまで手のうちの穏やかな海においておけるのか。それこそ「人智」の及ばないところだ。しかし捕まえてきた野生のライオンを家の中に放し飼いにしておくようなものだとわかればすぐにでもやめなければならぬ。
まだある。生物の進化は、周囲に存在する致命的な有害物を無害化したり、逆に利用したり、防御するシステムををの体内に発達させることで行われてきた。われわれは数十億年という年月をかけてようやくうまくそれができるようになってきたのではないか。そこに核分裂生成物のような自然界には存在しない新たな物質がポンと放りこまれれば、直接あるいは間接的に、短期的にあるいは長期的にいかなることが起こりうるのか、いったいどういう問題を想定したらいいかすらわからない。
地球温暖化で世界的に原発建設のラッシュが今まさに起ころうとしている。事故の可能性は数に比例して増加する。世界の電力を原発でまかなうことはいい知れぬ恐怖だ。
原発はもともと「繋ぎ」の技術でなければならない。石油が枯渇する。人類のエネルギー需要はとどまるところを知らない。石油から新たなエネルギー源が登場するまで原発がリリーフしその間なんとか事故なく過ごして欲しいという位置づけだ。本来我々は原子力が繋いでいる間、必死で次のエネルギー源を考えなければならなかったはずだ。しかし、いつしかイージーな道に堕してしまった。
底にあるのは経済原理だ。そして一方で高度なエネルギー消費に支えられた国民の生活の「満足」がある。安全だからといって高いエネルギーコストは国家の危機でもある。企業はそして労働は海外へ出てゆく。失業が増える。経済が弱れば新聞テレビはここぞとばかり政治家の無能を書き立てる。要するに我々国民が、同時には成立しない二つの物の両方を欲しがっているのだ。
今回の大災害は我々への警鐘かもしれない。どちらも欲しがる幼児的な要求を漸くにして捨てる時期なのだと。経済を選択しながらよりよい方向を模索する今までのやり方は、少なくとも原発に関しては破綻している。こうなってみればもはや経済どころでない。
では原子力の先のエネルギーは何か。考えてみればこれが問題なのだ。自然エネルギーでは足りぬ。高い。石油はいずれなくなる。核融合放射性物質は劇的に減るにしても、核反応にはかわりない。資源はいずれ枯渇する。
結局は地上に降り注ぐ恵みの太陽エネルギーを超えて我々はエネルギーを使うことができないということであり、再生可能なエネルギーこそが神から真に我々に与えられた使って良いエネルギーなのだ。それを我々は平等に分かち合い、その範囲で生きていくのがまっとうな生き方というものだ。今は経済という名の下にその分を超えてしまっている。
今こそ国民のコンセンサスとして、尺度を「経済」から「環境・安全」へと転換し、今は高くても安全なエネルギー技術の開発を国家的使命として推進するべきなのだろう。これは我々の次の世代に日本発の技術を残してやることでもある。これほどの災害を経験した国は少ない。今こそ国を挙げて、世界の潮流がどうであろうと、石油後のエネルギー技術を開発する時なのかもしれない。
しかしいずれにしても我々が見栄えのためや、安いからといって垂れ流し的に使ってきたエネルギー消費をもっと意識を持って劇的に落とすことはさけられない。寒さ暑さに耐える。馬鹿げた番組をテレビで見続けるのはやめて本を読む。公共交通機関を充実する。電気自動車を普及させる。排泄物からのメタンを利用する。建物という建物はすべて北欧なみに厳重に断熱する。全ての乗り物もだ。できることは何でもやる。
全世界の人口一人一人が日本人なみのエネルギーを消費する権利があるとしたら、それが実現された結果は考えたくもない。地球はおそらく人間の住めるところではなくなるだろう。エネルギー先進国が自ら劇的削減する努力なしに、世界の格差は絶対になくならない。残念ながら貧しい国は貧しいままいてもらうことが前提の先進国の繁栄だからだ。
国際環境会議を見れば、こういった各国の思惑が入り交じり、効果はいつも疑問だ。しかし、日本は、日本だけは、「みんなでやらなければ意味がない」という議論から離れて、劇的なエネルギー削減をやってみせるのだ。やってみせると一人一人が決意するのだ。国際的競争力は落ちる。経済は低迷するかもしれない。だがこの未曾有の危機において、それを甘受してゆく覚悟を我々はいまなら持てるかもしれない。どのみち、これから経済は縮小して行く。それなら毅然として大義を持って堂々と誇り高く縮小していきたい。それこそが我々が次世代に残せる数少ないものかもしれない。